この記事を読んでふと思い出したことを。
「付き合う人を変える」が意味すること
- 周囲のX人の年収の平均があなたの年収である。
- 自分を変えるためには、まず環境を変えよ。
このあたりの言説は、2018年現在あるいは社会人としてはわりと当たり前な内容になってきています。
ただ学生時代、特に小中学校では「みんなと仲良く」が正しいとされてきたので、初めてこちらの本のタイトルを見た時びっくり仰天したのを覚えています。
本屋で平積みされていた記憶があるので、恐らく2009年の発売当初、つまり約10年前。
当時華のJDの私にとって「付き合う人を選べ」「変わりたければ付き合う人を変えろ」は革新的かつ残酷にすら感じたのです。
なぜか?それは、私自身が付き合う人を変える=いま周囲にいる人と高確率で疎遠になることだと、経験から知っていたからです。
思春期の貴重な経験
高校生の時に、1年間留学をしました。
帰国後は1学年下のクラスに編入し(休学扱い)、JKを4年やったことになります。
留学中の単位を認めてもらって元いた学年に復学する(留学扱い)こともできたのですが、あえて休学を選んでみました。
当初は「(元の)友達と一緒に卒業したいなぁ」と普通に思っていたのですが、ある日父が「もし一個下の学年に入ったら、Caseyは元の同級生/カナダの同級生/新しい同級生と、友達の輪が一つ増えるんやなぁ」と呟いたのになぜかすごく共感して、ノリで休学扱いに決めました。
※余談ですが父は、というか家族ともに、最初は留学反対でした:
果たして、父の予言(?)は的中しました。
1学年下のクラスに復学して最初こそ馴染むのに努力を要したものの、留学先での苦労に比べたら何でもなく、また周囲にも恵まれて楽しい4年間の高校生活を謳歌することができました。
その間、元の学年の友達とももちろん遊んだり連絡を取り合ったりはしていたものの…
ここで本題に戻ります。
なんだか距離を感じるようになったのです。
違和感の正体
それは、私が復学してまだ高2だった時に彼らは高3で、受験勉強真っ最中だったことも確実にあるでしょう。
ただそれだけじゃなく、なんとなく話が合わない。
もっと言うと、これは認めるのに勇気が要ったのですが、留学でいろいろ経験して成長した自分を抑えて話さなくてはならない気がしたんです。
これ言ったら自慢っぽいかな?
みんなに合わせてこう言っておこう。
そんな風に、自分が思った通りに話すことをいちいち抑圧している自分がいました。
後から振り返ると、思春期の多感な時期に留学という大きな経験を経て、一段レベルが上がったんだと思います。
一方で、日本にいた友達は彼ら自身の大切な時間を過ごし、そこに私がついていけない話題や共感できない感覚があるのも当然。
ただただ違う方向に歩み出しただけなんですね。
そのことに気付き認められるようになるまで、仲が良かった友達や好きな人と心が離れていくようで結構辛かったです。
だからこそ「付き合う人を変えて環境を変える」ことが意味するものを、原体験として学ぶことができました。
それは、新しい世界との出会い・興奮と、それまでの心地良い世界との違和感・決別を同時に意味します。
リスクを取る
成長には痛みを伴う。代償を払ってもなお、新しい世界にいきたいか?
今では当たり前に受け止めていますが、若くしてそのことを悟ったのは、得がたい体験だったと思います。
覚悟はできている。それでも私は新しい世界を覗き続けたい。
そんな風に改めて決意する、金曜の夜です。