先日うれしいことがあった。
パワハラ上司と闘い、結果として勇気ある撤退を選び、次に体調をちょっと崩した(具体的には胃痛)。こりゃいかんぞと経験上察知し、まずは休みを取った。そして、がんばるのをやめた。
がんばっても上手くいかなかったんだし、というかがんばり方が空回りしてて、がんばらなくてもできるような基本的なことが出来てないではないか。
デキる社会人・イケてるキャリアウーマンといったふわふわした理想に未だに未練があった私だが、まずは基本的なことができる社会人になろうと思った。やれと言われたことができればそれで十分、100点満点というように。
忘れた頃に青天の霹靂
そんな決意を新たにボチボチ働いていたところ、昇進した。
正確に言えば、昇進の話はずっと前から出ていて、面談があったり水面下で上の人がいろいろ動いてくれたりしていた。
時期的にはこれぐらいに決まるというのも知識としてはあったが、何となく意識から抜けていたのと、そもそも今回の昇進は前向きに諦めていた。同じ職責の他の人々と比べてあまりにもレベルが違うし、今年がダメなら来年には自信を持てるよう粛々とがんばろうと思っていた。
だから、社長のオフィスに呼ばれて昇進の結果を告げられた時は「へっ?あ…ありがとうございます!」という感じだった。
がんばるのやめたら…の仕組み
よくある「がんばるのをやめたら全てが上手くいくようになった」という言説の一環として、「がんばるのをやめたら評価や給料が上がった」という話も聞いたことがあった。
んなわけあるかいと思っていたが、今回の一件で「そういうことか!」と分かった。
つまり、がんばるのをやめた“から”評価されるのではなく、恐らくそれまでがんばっていた面もちゃんと見てくれている人がいて、一方でふと肩の力が抜けて「がんばらなくていいや」とリラックスした瞬間に良いニュースが舞い込む。
これが、がんばるのやめたら評価されるようになった!のカラクリっぽい。だから、がんばってた時は無駄じゃなかったのだ。
がんばり続けてしまえた人の弱さ
無駄どころか、がんばった(がんばりすぎてしまう含む)経験があってこそ本当の意味で「がんばらなくていい」と自分や他人に声を掛けてあげられる。皆さんも心当たりがあるかと思うが、全然がんばってない人にがんばらなくていいよーと言われても、説得力に疑問がある。
一方で、がんばり続けてしまえた人。こういう人が上にいくと、自他ともになかなか大変だ。20代、30代の気力・体力のままトップスピードで走り続けていつガクンと来るやも知れず、心身が悲鳴を上げても自分から下りられない。
またごく稀に走り抜けられた人も、その奇跡的な確率と運の良さを自覚できなければ、パワハラモンスターの出来上がりだ。そこまでいかずとも「がんばれない人が理解できない」結果、そこまでがんばれない=組織の大部分を占める人材を見捨ててしまう。
地図は私が描く
将来的にキャリアを重ねる上で私の強みは、恐らくこのがんばれない人を理解できる点となるだろう。
今回の昇進の先に続く未来図は、少し前までは全く見えなくて不安だったけど、逆に言えば如何様にでも描いていけるってことだ。